普通の現代人とベタとメタについて

いまどきじゃないけどいわゆる「アーリーアダプターに訴求しましょう」とか「まずイノベーター層に向けて発信して」とか「パレートの法則」とかいわゆる当たり前なことを言うベタすぎる企画とかマーケティングの人が、すでにその時点でイノベーター的な人に何かを発信して、うまく届く気がしないって言うことを思ったんです。

普通すぎるじゃないですか。

そういう人(悪いとは言っていない)がどうやったら普通じゃない人たちに何かを届けられるんでしょうか。
「ふつうじゃない」も「どうやったら」もベタな発想からは出てこないんだろうな、と。

これ誰か人の悪口じゃないです。

あとは、まとまりないまま書きますが、
現代人のツッコミ気質=メタを担保するのに実は「おいしいものを食べる」みたいな行為っていうのがすごく有効なんじゃないかなと思います。
おいしいかおいしくないかなんていうのは、感性でも語れる訳ですし、そこまで不味いものを食べさせる店もない訳なので、「おいしいものを食べて、お酒飲んで楽しくお話しして満足」っていうベタ(な多幸感)も保証されている訳だし、良い娯楽ですよね、しかも食事もかねているんです。

そして食べログのレビューとかって実にそういうベタメタの交換をしている層を巧くとらえているんじゃないかなぁ、なんてことを思ったんです。

メタっていうのは他社との関係性で成り立つ訳で、それが2人称から3人称へ進むのは比較的ハードルが低い気がします。しかも匿名性が担保されていれば尚更、人格も作りやすいです。

一方でTwitterみたいなリアルもまじったグラフありきの世界ではなかなかここまで行かないんじゃないでしょうか。

今のインターネット全体は、こういう質の違うUGCをそれぞれ収集し続けていることになります。

どちらが良いとかもないです。
誰がいつそれを評価するかにもよります。

仮にカレー店のチキンカレーだったとして、はじめから食べログのメニューを詳細までは見ないはずです。まずは場所やレーティングと写真でざっくりと判断していると思うので、その意味で言うと2人称的に語られたよく知っている知人の「チキンカレーおいしかったー」という写真付きのTweetと情報価値は変わらない可能性もあるんじゃないかな、と思ったりしました。

「変わらない」は乱暴かもしれないですけど、カレー店に行くキッカケとしては(変わらない)という意味です。